pickup
南禅寺(なんぜんじ)絶景の三門で知られる林間の禅刹

大泥棒の石川五右衛門が南禅寺の三門に昇り「絶景かな」といい、見得を切ったということ

南禅寺を紹介するときに、よくいわれることで、歌舞伎の舞台で大泥棒の石川五右衛門が南禅寺の三門に昇り「絶景かな」といい、見得を切ったということで、それが今日まで広く伝わっている。
でも、これは作者並木五瓶の巧みな創作であって、三門は五右衛門が釜茄の刑で死んだ30数年後(1628年)に江戸期の大名藤堂高虎によって建てられたものである。

といっても「絶景かな」はいまもたしかに絶景であって、南禅寺の三門は珍しく拝観者に開放されているので、ぜひ楼上に昇って四方を見晴らす眺めを楽しんでみたい。

西方面は松林越しに平安神宮から鴨川の西域の市街を望み、東側に回れば東山の一峰南禅寺山の深々とうねる緑が間近で、南や北方向は眼下に専門道場や塔頭の瓦屋根をみることができる。

南禅寺の創建と寺域

1264年(文永元)亀山天皇はこの林間の地に離宮禅林寺殿を造営した。しかし、それ以前にあった古寺の死霊が出没したため、亀山帝は数々の名僧に祈祷をさせたが、その効き目はなく、東福寺3世の無関普門を請じたところ死霊は退散した。

それにより普門に深く帰依した亀山法皇は1291年(正応4)離宮を禅寺に改めた。これが南禅寺の創建となる。

亀山法皇は南禅寺の住持になる僧は法脈を問わず「器量卓抜」のものを選ぶように文言を残した。これによって各門流の名僧が南禅寺に集まった。

なお、足利義満によって京都五山の順位が定められたとき、南禅寺は「天下五山之上」として五山の上位におかれたのである。
三門の眺めを楽しんだのち、林間のなかを山側に歩くと、まず法堂(仏殿)が中央に建つ。
南禅寺の諸堂はたびたびの火災で江戸期に再建されたものだが、この法堂だけは1895年(明治28)に焼け、1909年(同42)に再建されている。
さらに右手奥に歩くとアーチ型構造の「水路閣」がみえてくる。京都近代化の偉業である琵琶湖疏水を通す陸橋で、いまも橋の上には勢いよく水が流れる。古色な煉瓦色がこの禅寺の景色によく溶けこんでいる。

第一級の美術館と名庭

山際に位置する本坊の各建物も見どころで、庫裏から堂内に入ると、単層、寝殿造で柿葺(こけらぶき)の大方丈につづく。数多くの部屋をもち、各部屋は狩野元信や永徳の障壁画で飾られ、建物とともに超一級の美術館といっていい。
つづく小方丈にも狩野探幽作の「群虎図」などの傑作がある。

大方丈の庭園は、山麓の緑樹を背景に、庫裏の瓦屋根や五筋の築地を前景にして、広縁からゆったりと眺められる。砂紋を描く白砂が美しく、奥まって「虎の児渡し」という巨石群と植栽、刈込が一ヶ所にまとめられ、格調高い借景庭園様式をみせている。

また、庫裏大玄関先の景色は、山際に建つ玄関口に参道の敷石が吸いこまれていくような遠近法の構図が印象深い。
南禅寺の代表的な塔頭を紹介すれば、徳川家康の政僧として暗躍した以心崇伝が再興した「金地院」と、南禅寺の開山無関普門の塔所として建立、のちに細川家の菩提寺となった「天授庵」、さらに南禅寺の別院で亀山法皇の離宮の遺構である「南禅院」があげられる。
この三寺院はいずれも庭園の美を誇り、訪れる価値はおおいにある。

京都市左京区南禅寺福地町86
075(771)0365
8時40分~17時(12月~2月は16時30分・12月28日~31日は閉門)

境内拝観自由(一般:方丈庭園と三門は各600円、南禅院400円、高校生:方丈庭園と三門は各500円、南禅院350円)
https://www.nanzenji.or.jp

市営地下鉄 東西線蹴上下車徒歩10分

アクセス

おすすめの記事