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醍醐寺(だいごじ)200万坪の寺域を有する雄大な大寺

醍醐寺は、笠取の山頂にかけての地域に、「上醍醐」「下醍醐」と分けて建つ

世界遺産

京都市の東南、山科盆地がひろがる、この地は古くから大和・宇治・近江を経て遠く北陸に到る幹線道路があり、平安京の東南近郊の一地区として注目されて来た場所です。

醍醐寺は、この盆地の東側、笠取の山頂にかけての広大な地域に位置し、山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と分けて、参詣客の多くは、金堂や五重塔、三宝院(子院)の建つ下醍醐とになる。

山頂付近の上醍醐への山道はかなりの急坂で、山頂の開山堂まで約2.6km、約1時間を歩き通さなければならず、気軽に拝観するといった気持ちでは行きつきません。

醍醐寺はその山上にはじまった。
貞観年間(859~77)に聖宝(理源大師)が草庵を設け、その後、山上に准胝堂、如意輪堂を建立、また聖宝に帰依した醍醐天皇により907年(延喜7)薬師堂、五大堂が造営されて定額寺となった。

上醍醐にのぼる

旧奈良街道に面した総門を入ると「醍醐の花見」(再現行事=4月第2日日曜日)で華やぐ「桜の馬場」の広い参道が仁王門までつづく。仁王門の手前を右に、境内を囲む樹木に沿って南側の縁を回るように山道をのぼってゆくと成身院(女人堂)がみえてくる。やがて山道は槍山の「豊太閤花見跡」にいたる。
1598年(慶長3) 3月15日の「醍醐の花見」ではこの槍山の千畳敷の平地に花見御殿が建てられたという。
行程のほぼ中間点に不動の滝があって、ここからきつい坂道の上り坂となる。やがて坂道は終わり、上醍醐に入る。1434年(永享6)に再建された懸崖造の清龍宮拝殿、その横には、醍醐水の祠があり、この水こそ当寺の寺名の由来なのである。

聖宝が霊験により笠取山(醍醐山)に登ったとき、白髪の老翁に化身した地主神の横尾明神があらわれ、落葉の下から湧きでていた水を飲み「ああ醍醐味なるかな」といい、あわせて「よく密教を広めて衆生を利せよ」と告げ、忽然と姿を消した。聖宝はその水の湧くところに石を積み閼伽井とした。それが霊泉醍醐水で、このことにより山名とし寺名としたという話である。

下醍醐の伽藍と三宝院

下醍醐の整備と造営も904年(延喜4)ころからはじめられ、926年(延長4)に釈迦堂(のちに金堂という)、951年(天暦5)に五重塔が完成した。そして、第14代座主勝覚が1115年(永久3)に三宝院を建立、つづいて理性院、金剛王院、報恩院、無量寿院の四院が創建され、三宝院とあわせて醍醐五門跡が成った。
醍醐寺の座主は、五門跡から順次選ばれていたが、室町幕府の信任をえた座主満済(足利義満の養子)が三宝院門跡になり、幕政にも参加して権勢を誇ったため、その後三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるようになった。この時期、醍醐寺は全盛期をむかえるのである。
しかし、応仁の乱で五重塔をのぞく伽藍のほとんどが灰燼に帰して、また膨大な寺領荘園も失った。第80代座主義演が豊臣秀吉の絶大な支援によって再興、1600年(慶長5)には紀州湯浅の満願寺の本堂を移して金堂を再建した。今日みる醍醐寺の伽藍配置は慶長年間(1596~1615)にほぼ復興したのである。

醍醐寺の五重塔は現存する京都最古の建造物といわれて、相輪の高さが塔の3分の1の約13m、五層の屋根は上にいくほど小さくなる様式とともに堂々とした安定感をみせている。

下醍醐の山内で最も重要な塔頭が三宝院である。醍醐寺の総門を入って広い参道(桜の馬場)の左手に位置する。一般の出入口である表門を入ると、五七の桐文が染められた紫地の幕がかかる大玄関がみえ、そこから葵の間、秋草の間、勅使の間をへて、表書院、さらに秀吉が花見をおこなった純浄観にまわる。

表書院からは南に秀吉が直接作庭を指示したという庭園が大きく開けて、この庭もじっくりとみておきたい。
また、奥宸殿には、修学院離宮の「霞棚」、桂離宮の「桂棚」とともに天下の三大名棚と称される「醍醐棚」がしつらえられている。

京都市伏見区醍醐東大路町22

電話 075-571-0002

拝観時間
夏期:3月1日〜12月第1日曜日まで 午前9時〜午後5時
冬期:12月第1日曜日の翌日〜2月末日まで 午前9時〜午後4時30分

拝観境内自由、春秋のみ霊宝館、金堂公開

交通 :京阪バス:醍醐三宝院、市営地下鉄:醍醐

醍醐寺公式HP:

アクセス

 

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